雑記6
読書の魅力とは一体何なのでしょうか。
まず、単位時間当たりの情報量の多さという点があります。耳で聞く話には速度に限界がありますので、目で捉える文字の方が便利です。
テレビ番組などで見られる娯楽教養番組は、どうしても情報の密度が薄いものとなっています。これは、堅苦しさを防ぐためという視聴者の姿勢が反映されているからです。最近ではこれが行き過ぎて、タレントのとりとめのない話に尽きていますが……。
また、新しい価値観が得られるという点もあります。違った視点を得ることができる、と言い換えられます。
私が思う、読書の最大の魅力というのは、自分が無知だということを教えてくれる、という点でしょうか。
本を読めば読むほど、知識をつければつけるほど、その何倍もの「知らないこと」を知るようになります。つまり「無知」であることを知る、という意味です。
人間というのは、大抵、必要最小限の日常生活をすごしていると、自分が何でも知っている何でもできる完璧な人間だという錯覚に陥りやすくなります。
こうなりますと、その態度は傲慢、かつ高慢になり、相手の意見に耳を傾けなくなります。
そうなると、独断と偏見で突き進み、やがては不利益を被ることになるのです。
ですが、読書で自分が無知であることを知れば、以下に自分がその「無知である部分」を社会の中でお互いに補い合って生きているかが理解でき、人の意見にも耳を傾けられるようになります。そうすれば、新しい価値観、自分を戒める冷静中立な態度、客観的な視線を得ることが出来る。
読書の魅力は尽きませんね。
まず、単位時間当たりの情報量の多さという点があります。耳で聞く話には速度に限界がありますので、目で捉える文字の方が便利です。
テレビ番組などで見られる娯楽教養番組は、どうしても情報の密度が薄いものとなっています。これは、堅苦しさを防ぐためという視聴者の姿勢が反映されているからです。最近ではこれが行き過ぎて、タレントのとりとめのない話に尽きていますが……。
また、新しい価値観が得られるという点もあります。違った視点を得ることができる、と言い換えられます。
私が思う、読書の最大の魅力というのは、自分が無知だということを教えてくれる、という点でしょうか。
本を読めば読むほど、知識をつければつけるほど、その何倍もの「知らないこと」を知るようになります。つまり「無知」であることを知る、という意味です。
人間というのは、大抵、必要最小限の日常生活をすごしていると、自分が何でも知っている何でもできる完璧な人間だという錯覚に陥りやすくなります。
こうなりますと、その態度は傲慢、かつ高慢になり、相手の意見に耳を傾けなくなります。
そうなると、独断と偏見で突き進み、やがては不利益を被ることになるのです。
ですが、読書で自分が無知であることを知れば、以下に自分がその「無知である部分」を社会の中でお互いに補い合って生きているかが理解でき、人の意見にも耳を傾けられるようになります。そうすれば、新しい価値観、自分を戒める冷静中立な態度、客観的な視線を得ることが出来る。
読書の魅力は尽きませんね。
雑記5
赤という色について。
まず日常的に目にする、赤いものをひたすら挙げていきます。
郵便ポスト、赤信号、車のブレーキランプ、テレビなどの待機電源、カレンダーの日曜、日没、血など。
これらに共通する色彩観念は、「危険」というものが根底にあります。
上記の例などでは特に、血がメジャーなものでしょう。人によりますが赤い血をみることでなにかしらの「危険」を感じ取ります。
またこの「危険」から転じる意味のものもあります。
例えば、車のブレーキランプ、赤信号などは「危険→いったん立ち止まって冷静になれ」みたいなイメージでしょう。
カレンダーの日曜なども、「一週間の疲れが溜まり危険だから、休め」という警告的な要素を含んだものです。
つまり「いったん休止」といった意味合いにもなってくるわけです。
そうすると、テレビなどの待機電源が赤ランプなのもうなづけますし、日没も「太陽のおつとめ終了」という意味での「休止」が感じられます。(まぁしかし、実際太陽はずっとおつとめ中なワケですが……)
そして最後に残った郵便ポストですが、これは手紙などの立場に立って考えるとわかりやすいと思います。
要するに、目的地までの道のりにおける「休憩所」の役割をポストがしているわけです。
人は他の生物よりも色彩を感じ取れるわけで、そこに何かしらの意味が隠されているがため「色を判別できる能力」が進化で獲得できたと捉えれば、もっと身の回りの色に対するおもしろさが増してくるかもしれません。
まず日常的に目にする、赤いものをひたすら挙げていきます。
郵便ポスト、赤信号、車のブレーキランプ、テレビなどの待機電源、カレンダーの日曜、日没、血など。
これらに共通する色彩観念は、「危険」というものが根底にあります。
上記の例などでは特に、血がメジャーなものでしょう。人によりますが赤い血をみることでなにかしらの「危険」を感じ取ります。
またこの「危険」から転じる意味のものもあります。
例えば、車のブレーキランプ、赤信号などは「危険→いったん立ち止まって冷静になれ」みたいなイメージでしょう。
カレンダーの日曜なども、「一週間の疲れが溜まり危険だから、休め」という警告的な要素を含んだものです。
つまり「いったん休止」といった意味合いにもなってくるわけです。
そうすると、テレビなどの待機電源が赤ランプなのもうなづけますし、日没も「太陽のおつとめ終了」という意味での「休止」が感じられます。(まぁしかし、実際太陽はずっとおつとめ中なワケですが……)
そして最後に残った郵便ポストですが、これは手紙などの立場に立って考えるとわかりやすいと思います。
要するに、目的地までの道のりにおける「休憩所」の役割をポストがしているわけです。
人は他の生物よりも色彩を感じ取れるわけで、そこに何かしらの意味が隠されているがため「色を判別できる能力」が進化で獲得できたと捉えれば、もっと身の回りの色に対するおもしろさが増してくるかもしれません。
雑記4
「〜に似てるよね」と声をかけられました。
その対象物(人なり、動物なり)に自分が似ているかどうかは定かではありません。
問題はそこではなく、その相手の行動にあります。
まず、なぜ類似物を見つけ出そうとしているのかという点が一つです。
日本人は特にトポロジー(相似、類似)的なものが好きだと言われていますが、どうしてそうなるのでしょうか。
人間は古くから共同体(群れ)を作ることで生活を成してきました。その方が都合が良いから(役割の分担など)です。同じ考えや気の合う人が集まるのも、同じことでしょう。
しかし今回のケースでは、相手は自分自身に似たものを見つけ出している、というわけではありません。
自分とはまったく別の対象物を、他の対象物と照らし合わせて類似を発見しようとしています。因数分解みたいなものです。
これは、「分類整理」に近いものがあるのかもしれません。
スーパーなどで、食品の種類によって分類されているのは、その方が私たちにとって探しやすいという利便性を含んでいるからです。
ですが、今回のケースの「私が誰かに似ている」という情報をその人が得てどうしようというのでしょうか。
これが疑問その一。
次に、なぜそのことをわざわざ私に報告するのか、という点です。
このケースの場合、大抵が嬉々とした表情で伝えてくることが多いです。まるで、そのことが私を喜ばすかと考えているかのような感じです。
実際、誰かに似ていると言われても、ちっとも嬉しくありません。かといって不快にもなりません。ようするに、さして重要ではない情報ということです。
報告されて私の何が変わるのでしょうか。
これが疑問その二。
以上の二点の疑問を解決してくれるそれなりの結論は、「類似という共同体を得ることで人は安心する」と多くの人が無意識に感じているということなのかもしれません。
それがあるから、他人に「類似物がある」と伝えることで、それがその他人を安心させ喜ばせる、と思っているのでしょう。
しかし、現在では、群れを作らなくても生きていける世界へと移ってきています。
そのことが、私のような「共同体なんて必要ない」という(世間的に)偏屈な考えをもたらし、今回のような齟齬を生み出したのかもしれません。
その対象物(人なり、動物なり)に自分が似ているかどうかは定かではありません。
問題はそこではなく、その相手の行動にあります。
まず、なぜ類似物を見つけ出そうとしているのかという点が一つです。
日本人は特にトポロジー(相似、類似)的なものが好きだと言われていますが、どうしてそうなるのでしょうか。
人間は古くから共同体(群れ)を作ることで生活を成してきました。その方が都合が良いから(役割の分担など)です。同じ考えや気の合う人が集まるのも、同じことでしょう。
しかし今回のケースでは、相手は自分自身に似たものを見つけ出している、というわけではありません。
自分とはまったく別の対象物を、他の対象物と照らし合わせて類似を発見しようとしています。因数分解みたいなものです。
これは、「分類整理」に近いものがあるのかもしれません。
スーパーなどで、食品の種類によって分類されているのは、その方が私たちにとって探しやすいという利便性を含んでいるからです。
ですが、今回のケースの「私が誰かに似ている」という情報をその人が得てどうしようというのでしょうか。
これが疑問その一。
次に、なぜそのことをわざわざ私に報告するのか、という点です。
このケースの場合、大抵が嬉々とした表情で伝えてくることが多いです。まるで、そのことが私を喜ばすかと考えているかのような感じです。
実際、誰かに似ていると言われても、ちっとも嬉しくありません。かといって不快にもなりません。ようするに、さして重要ではない情報ということです。
報告されて私の何が変わるのでしょうか。
これが疑問その二。
以上の二点の疑問を解決してくれるそれなりの結論は、「類似という共同体を得ることで人は安心する」と多くの人が無意識に感じているということなのかもしれません。
それがあるから、他人に「類似物がある」と伝えることで、それがその他人を安心させ喜ばせる、と思っているのでしょう。
しかし、現在では、群れを作らなくても生きていける世界へと移ってきています。
そのことが、私のような「共同体なんて必要ない」という(世間的に)偏屈な考えをもたらし、今回のような齟齬を生み出したのかもしれません。
雑記3
日本に、音楽を評価する正当なシステムが存在するのだろうか、という疑問についてです。
オリコンのCD売り上げランキングがあるではないか、と人に言われました。
しかし、このランキングはどう考えても、純粋な音楽を評価しているとは思えません。
エンターテイメント性のコンテンツを含んだものを、CDというメディアを媒介としているだけで、音楽のみを評価しているわけではありません。
ジャケットであったり、おまけCD・DVD・グッズ、などといった音楽とは一切関係ない装飾物も含まれています。
さらに演奏者などのヴィジュアルも加わってくることになり、何がなんだかわからない状態です。
マスメディアが頼りにならない分、ネットならなんとかなるかもしれません。
匿名性もあり、純粋に音楽だけでの評価ができるかもしれません。素人でも簡単に投稿できるという点もあります。しかし、音質が悪いという難点もありますが。
しかしそうなってくるとしても、今度は視聴者側にも問題がおきてきます。
素人も多いのだから、という理由で敬遠しがちになったり、きちんとした評価をせずに聞くだけで終わるといったこともあるでしょう。
仲間内で組んである人物に高い評価をつけたり、その反対であったり、捏造されることもあるでしょう。
普遍的なランキングは存在はしえないことになります。
オリコンのCD売り上げランキングがあるではないか、と人に言われました。
しかし、このランキングはどう考えても、純粋な音楽を評価しているとは思えません。
エンターテイメント性のコンテンツを含んだものを、CDというメディアを媒介としているだけで、音楽のみを評価しているわけではありません。
ジャケットであったり、おまけCD・DVD・グッズ、などといった音楽とは一切関係ない装飾物も含まれています。
さらに演奏者などのヴィジュアルも加わってくることになり、何がなんだかわからない状態です。
マスメディアが頼りにならない分、ネットならなんとかなるかもしれません。
匿名性もあり、純粋に音楽だけでの評価ができるかもしれません。素人でも簡単に投稿できるという点もあります。しかし、音質が悪いという難点もありますが。
しかしそうなってくるとしても、今度は視聴者側にも問題がおきてきます。
素人も多いのだから、という理由で敬遠しがちになったり、きちんとした評価をせずに聞くだけで終わるといったこともあるでしょう。
仲間内で組んである人物に高い評価をつけたり、その反対であったり、捏造されることもあるでしょう。
普遍的なランキングは存在はしえないことになります。
雑記2
「好きな色って何?」
という質問をたまに聞くのですが、これは一体何が狙いなのかな、と疑問に思います。
そもそも、好きな色というものは、存在するのでしょうか。
「ちなみに、あなたの好きな色は?」
こう私が聞き返すと、「う〜ん……、○色かな」と、とりあえず答える人がいます。
もし、その答えた色が本当に好きならば、身の回りのものを「それ一色」にするはずです。
ところが、当然、例えば服などは違う色の組み合わせであることが多いです。(ジャージとかは上下同じかもしれませんが、ラインとかポイントとかが別の色ですね)
その矛盾について質問すると、
「それはそれ、これはこれ」と別問題として扱っているというような返答をされます。
では、好きな色って何なのでしょうか……。どこにあるのでしょうか。
絶対的に好きな色とは存在しなくなるわけで、つまり「好きな色は?」という質問自体、無意味になってしまいます。モノによって、好きな色が変わってくるわけですから。
よって質問に対する答えは、「ケースバイケースばい(博多弁)」と言うしかありません。
という質問をたまに聞くのですが、これは一体何が狙いなのかな、と疑問に思います。
そもそも、好きな色というものは、存在するのでしょうか。
「ちなみに、あなたの好きな色は?」
こう私が聞き返すと、「う〜ん……、○色かな」と、とりあえず答える人がいます。
もし、その答えた色が本当に好きならば、身の回りのものを「それ一色」にするはずです。
ところが、当然、例えば服などは違う色の組み合わせであることが多いです。(ジャージとかは上下同じかもしれませんが、ラインとかポイントとかが別の色ですね)
その矛盾について質問すると、
「それはそれ、これはこれ」と別問題として扱っているというような返答をされます。
では、好きな色って何なのでしょうか……。どこにあるのでしょうか。
絶対的に好きな色とは存在しなくなるわけで、つまり「好きな色は?」という質問自体、無意味になってしまいます。モノによって、好きな色が変わってくるわけですから。
よって質問に対する答えは、「ケースバイケースばい(博多弁)」と言うしかありません。
